賑やかな通りに看板のない入り口がぽっかりと開き、キャンドルが煌めくほの暗い廊下や階段を、ドキドキしながら歩いていくとたどり着く、美しき隠れ家バー、ストックトン。
1890年代ロンドンの紳士淑女が集う秘密の社交場をイメージした、ヴィンテージ風革張りソファや家具。そんな中にナポレオンの衣装をまとったデビッド・ボウイの肖像画がさらりと飾られています。
クラシックな中のほどよい遊び心が、ストックトンの粋。浮き世を忘れるムードの中で、極上のカクテルとレストランレベルの美味なスナックをじっくり楽しめる大人のバーなのです。
アジアトップ50バーの常連になり、2017年は8位という快挙! オープン3年目にして、香港バーシーンの重鎮になっているストックトンは、香港バー業界の人たちが仕事の後に立ち寄る、同業者に人気が高い「インダストリーバー」としても密かに有名です。
そう言えば私とストックトンとの出会いも、2014年のHanakoの香港特集で、香港女子のお勧めの店として、バーテンダー女子の紹介で取材したときでした。
「楽しい時間が過ごせて、上質なカクテルが飲めて、居心地のいいサービスが約束されているからね。同業者のみんなは、店閉めるっていっても帰ってくれないから、困るんだけど(笑)。掃除手伝わせる? 無理無理!」と楽しそうに話してくれたのが、ストックトンと共に、モット 32などの人気レストランを手がけるレストラン・グループ、マキシマル・コンセプトのビバレージ・ディレクター、サンディープ・ハシラマニさん。
そんなストックトンが2017年5月に新メニュー「Minds Undone(マインズ・アンダーン)」を発表。トルーマン・カポーティ、ウィリアム・フォークナー、オスカー・ワイルド、P・スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、エドガー・アラン・ポー、レイモンド・チャンドラーなど、日本でもお馴染みの英米文学の巨人たちの名前とともに、ビート・ジェネレーションの破滅的カリスマライター、ジャック・ケルアック、70年代米国の型破りな「ゴンゾー・ジャーナリズム」の生みの親、ハンター・S・トンプソンなど、ジャーナリストや詩人13人を選び、彼らのライフストーリーにインスピレーションを受けたオリジナルカクテルを揃えています。
このマインズ・アンダーンが、よくあるメニューと一線を画すことは、メニュー自体を見てもらえば、すぐに分かります。徹底してコンセプトを貫いたスタイリッシュなデザインの、まるで1冊のイラスト本。ページを開けば、左ページに、カリカチュアスタイルの作家の肖像と、その作家の有名な引用が描かれ、右ページには作家の名前と紹介文、カクテル名、レシピ、価格が掲載されています。あまりのカッコいい仕上がりに、メニューを持ち帰ってしまう人がいるのが悩みとか。
「実はストックトンという名前の由来は、ハンター・S・トンプソンの『S』から来ているのです。そう、彼のミドルネームはストックトン。常にSと書かれているので、ほとんどの人が知らないけれど、いつもそこにある。そんな秘密が、この新メニューを考え始めるきっかけになりました」
カクテルを作ることは、とても簡単、とにかくベースになるストーリーを見つけるのが大変、とサンディープさん。チーフミクソロジストのスラージ・グルングさんと二人三脚で、仕事の行き帰りには常に本を読み、図書館にもずいぶん通ったとか。メニューの考案から完成までに9ヶ月を費やしました。
「各カクテルのインスピレーションのベースは、人生の一幕だったり、抱えている問題だったり、時代背景だったり。さらに13人の生きた時代もバラバラ。社会に大きな影響をたこと。それから、アルコールとの関わりが深いこと。だからアメリカのライターが多くなったのかな(笑)」
たとえばマティーニ好きで有名だからマティーニ、というようなありがちな発想は排除し、フォーマットもありません。ストックトンに来て、作家たちのエピソードを学んだり、読んで楽しんだり。メニューとカクテルで心を動かされるきっかけになること。それがマインズ・アンダーンなのです。
さあ、それではさっそく、文豪との邂逅の時間です。英米文学科出身の私としては、お馴染みの先生方が集まっていて、なんとも言えないワクワク感があります。
この日最初にいただいたカクテルは、レイモンド・チャンドラーにちなんだ「フォーティ・フォー(Forty Four)」。プランテーション・バルバドス・ラムと、ココ・カヌ・ラムという2種類のラムとシェリーをベースにした、ピニャコラーダ風をアップグレードしたカクテルです。
「なんでチャンドラーのカクテルが44? 何でピニャコラーダ? って不思議に思うでしょ。そこから店のスタッフに質問をすることで、コミュニケーションが始まるきっかけになる。今日は誰とも話したくない気分なら、メニューに書かれたストーリーを読めばいい」
チャンドラーが作家になったのは、44歳のとき。簿記係の仕事をクビになって失業したことがきっかけだったそう。あらゆる質問にスタッフが答えられるように、週に1度は、サンディープさんやスラージさんが教授になって、各作家について、スタッフへのレクチャーを行い、定期的にテストまでしているのだとか!
「もう何歳だからって諦めない、楽天的に生きようという発想で、ピニャコラーダを選んだんだ。なぜグラスが魚? 面白いかなと思って(笑)。全部理詰めで決めているわけじゃなくて、遊びの部分をたくさん残しているんだよ」
破天荒なGonzo ジャーナリズムで名を成したトンプソンと言えば、あらゆるアルコールとカフェインをがぶ飲みすることで知られていました。そんな彼からはワイルドなカクテルを想像するかもしれませんが、あえてアイリッシュコーヒーを思わせるシンプルでエレガントなスタイルで、拍子抜けさせるのも狙いの一つ。
しかしその中には、アイリッシュ・ウィスキー、ラム、コーヒー、ギネス、ブラックカラント、ピスタチオ、カルダモンが絶妙なるバランスで共存していて、味もシンプルなようでいて、とてつもなく深く、ほっとリラックスさせられる魅力があります。載せているクリームはインドネシアのジャコウネコの糞から採取するコーヒー、コピ・ルアクを使って、コーヒーの芳香を忍ばせています。
淑女なワタクシには説明しづらいこのカクテル・・・・・・Big Dickのインスピレーションは、言わずと知れた世紀の文豪で酒豪のヘミングウェイ。何とも言えない奥行きと、濃厚さ、豊かな風味は、自家製ラムブレンドにアイリッシュ・ウィスキー、シェリー、そしてバナナやライム、サトウキビシロップや香辛料という、摩訶不思議な組み合わせから生まれています。名前からは想像できないシックなたたずまいと、落ち着いたフレーバー。確かにこれは美味しい! もう一杯!
どのカクテルも、一見シンプルに見えて、口に含むと驚くほどの深みと複雑性、意外性があって、しかも飲みやすく楽しいのです。破天荒な天才たちのストーリーに思いを馳せながら味わうと、アルコールを愛し過ぎた彼らとチャネリングするような、知的カクテル体験。
世界でも希というコンセプトメニュー、マインズ・アンダーンは高く評価され、世界的に有名なカクテル大会のテールズ・オブ・カクテルのトップカクテルメニュー部門に、香港のバーでは初めてノミネートされたそう。
こだわるところはこだわり、抜くところは抜く。秘密を少しずつ紐解きながら、遊び心を忘れない。そんな楽しさが、カクテルの味バランスからメニューのデザイン、一つ一つの調度品からインテリアまで、すみずみに行き渡った粋な大人の空間で、今宵はどの文豪と杯を交わしましょうか。